ワインと世界史

神とつながるワイン

古代ローマの時代、ワインの今後の運命を左右する決定的な出来事が生じた―キリスト教の誕生である。

古代ローマの時代までは、ワインは主に商業、療養、そして娯楽のために造られ飲まれていたが、キリスト教の誕生によりワインはさらに新たな意味を持つようになる。今もなお西洋世界の文化の根本に鎮座するキリスト教は、成立当初から信仰の重要な位置にワインを据えている。このキリストとワインの結びつきにより、ワイン文化は世界中で親しまれる特別な飲料になったと言っても過言ではない。

ワインがなぜキリスト教において重要なのか、そしてワインはキリスト教とともにどのように普及していったのか、その答えを探るべく初期のキリスト教の歴史を見てゆこう。

キリスト教とは

キリスト教とは、神の御子イエスをメシア(救世主)として信じる宗教である。メシアは「油を塗られた者」というヘブライ語に由来しており、ギリシア語ではキリストと表記される。欧州、ひいては世界中で最も信仰されている宗教であり、西洋文化の根幹を成すものである。

キリスト教の正典は『新約聖書』であるが、キリスト教はユダヤ教を基盤に生まれた宗教であるため、キリスト教は『旧約聖書』も正典として認めている(旧約聖書についてはこちら)。新約聖書は大まかに、予言、手紙、福音書の3つに分かれており、それぞれキリスト教の希望、キリスト教の信仰、イエスの歴史について書かれている。福音書の福音とは「よい知らせ」という意味であり(ギリシア語でエヴァンゲリオン)、ここでいうよい知らせとは、簡単に言うと、「イエスが生まれ、人間に代わり罪を引き受け処刑され、3日後に復活した」というものである。福音書は、ヨハネ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つが正典として認められているが、イエスの歴史を記述する正伝として重要なのは、ヨハネ、マルコ、ルカの3つの福音書である。

中世以降の西洋の歴史や文化は、すべからくキリスト教を母体として創り上げられているため、それらを学ぶ上ではキリスト教への理解は欠かせない。まずは、イエスの誕生、そしてキリスト教成立の歴史を見てゆこう。

イエスの誕生とカナの婚礼

イエスは、エルサレム近郊のベツレヘムで生まれた。その当時のエルサレムはローマ帝国の支配下にあり、政治的にとても不安定であった。当時のエルサレムの支配者ヘロデ王は、ローマ帝国の傀儡としてエルサレムで圧政を引いていた。このような情勢の中、ヨセフの婚約者である処女マリアは聖霊により身ごもり(受胎告知)、一人の子を生んだ。イエスである。星に導かれた東方の3人の賢者たちが、それぞれ贈り物を携え幼子イエスを礼拝したという。

ヨセフとマリアはガリラヤ地方のナザレに移住し、イエスを育てた。イエスは、ユダヤ教の会堂(シナゴーグ)で徹底的な宗教教育を受けていた。イエスの家庭は決して裕福な環境ではなかったため、子供の頃から上層階級への批判的精神を持っていたと考えられている。当時ガリラヤ地方を隠れ家としていたユダヤ人たちは、政治的宗教的対立から反乱を繰り返していたがいずれも失敗しており、自分たちユダヤ人を苦境から救ってくれるメシアを待望していた。

イエスがおよそ30歳の頃、イエスはヨハネから洗礼を受ける。イエスはその後霊に導かれ荒野彷徨い、悪魔の誘惑を受ける。この荒野での試練を乗り越えたイエスは、ヨハネを継ぎガリラヤ地方で民衆を神の国へと導く活動を始めた。

イエスは布教の際、数々の奇跡(超能力)を起こしたとされているが、その中でもイエスが起こした最初の奇跡はワインと密接に関わる

イエスが最初に奇跡を起こしたエピソードは、カナの婚礼として知られている。イエスが荒野での試練を終え、カナで行われる婚礼に招かれた際、母親のマリアはイエスに対して「(婚礼で使用する)ぶどう酒がなくなりました」と相談する。イエスは最初は自分には無関係であるとあしらったが、イエスはユダヤ人が清めの儀式に使用する水がめを指差して「水がめに水をいっぱい入れなさい」と給仕に指示した。給仕は言われるがまま水がめに水をいっぱいに入れると、なんと水がめに入れた水が上質なぶどう酒に変わっていた。水がめのワインを飲んだ花婿は「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったところに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました」と水がめのワインを称賛した。キリストの最初の奇跡にワインが関わっていることは、キリストとワインの関わりを語る上でとても象徴的である。

このイエスが起こした最初の奇跡のエピソードは、ルネサンス期の画家パオロ・ヴェロネーゼが巨大なキャンバスに描かれ、ルーブル美術館に飾られている。

『カナの婚礼』パオロ・ヴェロネーゼ

最後の晩餐とイエスの復活

イエスは、ペトロを始めとした12人の選ばれし弟子を使徒として従え(十二使徒)、数々の奇跡を起こしながらどんどん信者を獲得していった。しかし、メシアを待望していたユダヤ教徒の期待とは裏腹に、イエスの絶対愛と隣人愛を説く教えや活動は、彼らの常識を逸脱する挑発的な内容であった。ユダヤ教では罪人を許せるのは祭司という限られた身分の者だけであったが、イエスは臆せず罪人に近づき、奇跡とともに許しを与えた。当時社会的に遮断されている身分の低い者や罪人、別け隔てなく接したため、ユダヤの上層階級の人々はイエスを神への冒涜者であるとみなしていた。それに対して、イエスの方もユダヤの神殿や律法を批判し、神殿で粛清も行っている。

前衛的な活動の末に死期を悟ったイエスは、十二人の使徒を集め、キリスト教徒にとって極めて重要な、そしてキリスト教とワインとを密接に結びつけることになる最後の晩餐を開いた。

十二人の使徒を集め食事をしている最中、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて弟子たちにちぎって渡し、「取りなさい。これは私の体である」と述べた。また、イエスはぶどう酒の入った盃を取り、感謝の祈りを唱えて弟子たちに渡し、「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」と述べたとされている。この最後の晩餐でのエピソードは、キリスト教徒にとって非常に重要な意味を持つ場面である。このエピソードが示すのは、パンを食べることはキリストの体を自分の中へ受け入れることであり、ワインを飲むことはイエスとの間で交わされる新しい契約を受け入れることである。新しい契約という意味で、イエスの言行録は『新約聖書』と名付けられている。キリスト教徒にとってパンを食べワインを飲むことは入信を示す象徴的な儀式であり、そのためにキリスト教を精神の基盤とする西洋においてワインは非常に重要な位置を占めることになるのである。修道院が中世の時代に熱心にぶどうを栽培していたのも、このような宗教的背景があるのである。

『最後の晩餐』レオナルド・ダ・ヴィンチ

この最後の晩餐の後、イエスはローマに対する反逆罪として、総督ピラトによってゴルゴダの丘で十字架にかけられ、処刑された。死の直前、イエスの傍らにいた者がぶどう酒を含ませた海綿を棒につけ、イエスの口に持っていったとされている。イエスの死の描写の際にもワインが描かれているというのはとても象徴的である。

こうしてイエスは処刑されたのだが、イエスはその三日後に復活した。このことから、十字架での処刑は神の審判を意味しており、イエスの死は人間の罪を贖う行為であったのだという信仰が生まれた。この信仰を中心としてキリスト教は成立し、使徒たちの熱心な活動により世界へと広がっていった。

キリスト教の普及

まもなくペテロパウロなどのイエスの弟子たちによって、伝道活動が開始された。使徒の団体である教会も各地に建てられ、3世紀の危機(3世紀の危機についてはこちら)という不安定な時代に人々の心を捉え急速に広がっていった。もともと多神教であり、皇帝を神と同一視していたローマ帝国において、一神教のキリスト教は非常に厄介なものであった。そのため、ネロ帝に始まり数々の皇帝がキリスト教徒を迫害したが、キリスト教は下層市民を中心に上流階級まで指示を広げており、キリスト教を禁じると国家の統一が危ぶまれるほどにまでなっていた。そして313年、コンスタンティヌス帝のミラノ勅令によりキリスト教は公認された。

当時、キリスト教会の中では、神とキリストの関係を巡って様々な議論が交わされており、放っておいてしまうとキリスト教国家としての統一が危ぶまれるほどであった。そのため325年、コンスタンティヌス帝はニケーア公会議を開いた。ニケーア公会議では、イエスの神聖を否定するアリウス派と、イエスは神であり子であり聖霊であるという三位一体説を説くニケア派(アタナシウス派)のどちらの見解を採択するかが議論され、結果アリウス派は棄却され三位一体説を説くニケーア信条が採択された。

このようにしてキリスト教の教義は統一され、教会の組織化が一層進んでいった。392年にテオドシウス帝がローマ帝国の国教をキリスト教とし、キリスト教は一層広まることとなった。その後にローマ帝国は滅亡してしまうが(キリスト教のせいで滅亡してしまったと説く学者もいる)、キリスト教は変わらず人々の心を掴み、キリスト教を中心に据えた中世という時代が始まる。

修道院

キリスト教が広く広まる頃になると、より徹底したキリスト教の生活を求める人々により、新たな修行の形式や、その修行者たちが集まる共同体が生まれた。その典型的な例が、修道院である。

修道院とは、修道士がイエス・キリストの精神に倣い祈りと労働を行う共同体の施設である。中世以降、修道院はキリスト教の普及や西洋文化の発展に欠かせない存在になってゆく。修道院では、労働の一環としてミサや聖体儀礼に欠かせないワインを造っていたため、ワインの文化や歴史を語る上でも修道院の存在は欠かせない。

修道院の歴史とは、「わたしたちは何もかも捨ててあなた(イエス)に従って参りました」(マタイの福音書)というペトロの言葉の解釈の歴史である。ペテロが何もかも捨ててイエスに従ってきたように、ペトロの末裔として自分自身をすててキリストの道に入ろうとする人々が生まれ、3〜4世紀にかけて禁欲主義的修道院制度が大成された。

しかし聖書の中から、何もかも捨てたペトロの末裔に、世界を支配する権利をも見出すことが可能であった。それが、マタイの福音書の「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」という、イエスが弟子のシモン(この言葉がきっかけでペトロに改名する)に対して放った言葉である。ペトロ(Petrus)とラテン語で「岩」という意味を持つ。この言葉からは、ペトロの上に教会を組織する、つまり、何もかも捨てたペトロやその末裔が、イエスに従うすべての人々を従える権利を持つ、という解釈ができる。この聖書の一節は、中世キリスト世界において、教会や教皇が王権への優位性を主張する上で度々根拠として引用された。

古代ローマ人は、ボルドー右岸のある丘を訪れた。そこは粘土質の土壌であり、夏の乾燥する時期になると岩のように固くなる。古代ローマ人はその丘を、岩を意味するPetrusと名付た。現在その土地では、ボルドー最高の偉大なワイン、シャトー・ペトリュスが造られている。

世界最高峰のテロワールから生まれる、ボルドーの伝説的ワインであるペトリュス。

以上のように、キリスト教信仰においてワインはとても重要な位置をしめている。今日に至るまで途切れることなくぶどうが世界中で栽培されてワインが造られているのは、ワインがキリスト教と密接に関わっていたからと言っても過言ではない。ローマ帝国滅亡とともに古代時代は終了し、西洋はキリスト教を根本に据える中世へと移行する。そしてキリスト教との結びつきで、ワインは中世以降めざましく発展していくことになる。次回以降は中世の西洋の歴史をワインとともに見てゆこう。

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